IA再考

by Jesse James Garrett, 2002年1月29日-5月5日
翻訳:Kiko Yamaguchi, 2004年1月18日

  1. 領域と役割
  2. 内輪の慣習
  3. 白衣に身を包んで
  4. そして奇跡が起きる
  5. 未来のアーキテクト
  6. 秘けつとメッセージ

その1:領域と役割

まず情報アーキテクチャと言われる領域があり、そしてインフォメーションアーキテクトという役割がある。このふたつは程度の違いこそあれ互いに密接に係わり合い、一方に関する話題は、当然もう一方にも関連するものであった。しかし今その関係性を変えるべき時にさしかかっている。

景気の低迷にふさわしいタイミングなどないが、昨今の変動は情報アーキテクチャのコミュニティにとって大きな痛手だった。「ウェブデザイン」におけるわれわれの試みがようやく日の目を見始めたころ、不景気がその努力を台無しにしてしまったのだ。そのおかげで5年におよぶドットコム勢力にうんざりし、かつ不況で追い討ちをかけられたクライアントから、われわれはすっかり懐疑のまなざしを向けられる羽目となってしまった。

ニューエコノミーが盛況のころは、インフォメーションアーキテクトの役目が企業の成功に必要不可欠であるとビジネス界で認識されたため、そこで扱われる問題の鍵を握る者は当然、組織のトップレベルにもなれるとうかれる者もいた。(幻想的な"CXO"(※)である)しかしながら不景気の到来により、その領域と役割の両方ともが、まるで風前のともしびのような状況に追い込まれてしまったのだ。

※編注)CXO ... Chief Experience Officerの略。1999年から2001年のネットバブル期に世界規模で行われたユーザーエクスペリエンス関連会社の相次ぐ吸収合併によってうまれた最高職の一つ。執行役員というよりも各社のExperience Directorを束ねる顔役のような架空の役職であった。

われわれは自分たちのビジネス上の理論的根拠とセールストークを練り上げることに注力してきたが、一体何を売っているのか定かではないのが実情だ。情報アーキテクチャのアイデアを売っているのだろうか、それともインフォメーションアーキテクトのアイデアを売っているのだろうか?この混乱のせいで、われわれはいかに領域と役割を明確化するかという終わりなき議論のぬかるみに陥ってしまった。

ある学派は領域を役割にもとづいて定義しようとする。その考え方はこうだ。「私はインフォメーションアーキテクトである。よって私のすることは全て情報アーキテクチャである。」

役割をもとにした意味付けは広義に収まりがちだ。なぜならインフォメーションアーキテクトの担う職務はその属する組織ごとにさまざまなので、その役割の定義(すなわちその領域)も自然と大きくなっていってしまうのである。この発想がいわゆる「大きなIA」 -- 事業戦略、情報デザイン、ユーザーリサーチ、インタラクションデザイン、要件定義...などあげればきりのない、ありとあらゆる分野にわたる情報アーキテクチャの領域の定義 -- を生む要因となった。

それとは逆の方法が、領域を基準にその役割を定義するものである。情報アーキテクチャの指す分野が何であれ、インフォメーションアーキテクトはその分野に特化した人、という考え方だ。

この意味付けはたいてい狭義に収まる。情報アーキテクチャの問題とその解決策について深く語るには、まず極めて具体的な形でそれらの問題の範疇を定義することが求められる。

その結果が「小さなIA」と呼ばれる -- コンテンツ構成と情報空間の構築に焦点があてられたものだ。しかしながらこの役割の定義を(領域として)実際の役割にあてはめられると、定義された「枠」によって、情報アーキテクチャの成功に本来不可欠な多くの要素が、任務の範疇外とされてしまうのではないか、という不安を生む結果となってしまう。

インフォメーションアーキテクトの役割の広がりは、その職務(不景気の影響でもはやそれほど幅広くはないだろうが)を担う個人にとってはよいことかもしれない。しかしながら情報アーキテクチャの領域の定義にとっては悪影響でしかない。この業界の一部には、情報アーキテクチャに関連する全てのビジネス要素に対し、自分たちが直接権限をもたないと気がすまない、といった向きがなくもない。この手の考えは、たちの悪い傲慢さばかりが鼻につき、情報アーキテクチャ自体の価値をビジネスの場で浸透させようとする努力を水の泡にしてしまう。より大きな権力を手に入れようとすればするほど、他人をそう仕向けるよう説得するのは難しいのである。

当事者の多くにとって、この議論に公平な態度で臨むのは難しい。役割を明らかにしようとするいかなる発言も、必然的に他の誰かのアイデンティティを侵しかねないからだ。-- もし定義された役割が自分の職務内容と違っていたら、もう自分はIAじゃないかもしれない?あるいは最悪、自分はただIAと偽っているだけかもしれない?

結果としてわれわれは、誰かによる領域の定義が他の誰かの役割の定義とぶつかり、さらにその逆もしかり、という堂々巡りの議論に陥ってしまう。どちらか一方の定義だけではどうにも解決はできないのだ。

役割を広くカバーするような定義は、領域の有益な議論のためには広すぎるし、逆に最小限に限られた領域の定義は、今度はそれで役割を定義するには狭すぎてしまう。われわれの目の前はまるで袋小路だ。片方の定義はもう片方にとっては決まって物足りない。両者を同時に片付けようとすると、鶏が先か卵が先かというお決まりの議論で行く手を阻まれてしまう。

そこでただひとつの解決策は、領域と役割の定義を互いから完全に切り離して考えることだ。これは一見反論理的に見えるけれども、実際うまく理にかなったやり方である。おまけに一方が他方に先んずることもない。ひとつの例として、オーケストラの指揮者は多岐に渡る創造性と管理能力を問われるが、「指揮をする」という役割ひとつをとって考えてみると、必ずしもそれは彼が抱える広義の任務を説明してはいない。

われわれは幾重にも立ふさがる巧妙なな課題に直面している。にもかかわらず、長いこと自らの尻尾を追い回し、基本的な用語の定義に時間を費やしてきた。増えつづける用語で領域を定義しても、難題の理解を何ら促進することはない。また領域に対して狭義の意味付けを行うと、その発展のために欠かせない、表現の精密さに欠けることになってしまうのである。

一方で、役割については問題ない。企業はこれまで通り、インフォメーションアーキテクトの役割を必要に応じて定め、その成果が生まれるところに利益を配分するだろう。

さらにもう一つ、領域の議論と役割の議論を切り離して考えるべき理由がある。われわれは情報アーキテクチャの領域体系を先々まで残してゆかなければならない。そのためにインフォメーションアーキテクトの役割の概念を放棄するのは仕方のないことなのだ。

その2:内輪の慣習

情報アーキテクチャは広い範囲に渡る問題を包含する。情報アーキテクチャのプロジェクトにおけるいかなる文脈、または目的にかかわらず、われわれの関心はいつでも、効果的なコミュニケーションを促進するための構造をいかに創りだすかにある。この考えが、情報アーキテクチャの核となるものである。

私のバックグラウンドは、業界で言われるところの「コンテンツ開発」、それ以外では「ライティングと編集」として知られる分野にある。どういうわけか、その業界からIAの世界に転職したという話はあまり多くないが、私は事あるごとに両者の関連性を説明している。

人類の歴史を通して、効果的なコミュニケーションにもっとも強い関心を抱くのは、決まって言葉に関する仕事をしている人々である。ハイパーテキストに先行して、いや古典的なテキストそのものに先行して、言葉は「情報の構築(architecting information)」の元祖のツールであった。

編集者という職について考えるとき、きっと誰しもが、ペンを片手に背を丸めて机に向かい、果てしなく続く文章に赤入れをして推敲を重ねる、といった姿を思い浮かべるのではないかと思う。しかしながら、編集者の役割と編集の領域は、2つの全く異なるものだ。先に述べた手合いの仕事を専門で行う人がいることは事実だが、編集者になるということには、たいていそれ以上の意味が含まれているのである。

もっとも広い意味では、編集者の仕事は、ライターがより効果的に文章を書くことができるように手助けをすることである。これにはもちろん、文法、句読点の用法、言葉選びなどが含まれる。しかしながら、編集者の仕事の真骨頂は、いかに効果的な文章構造を創りあげるかにある、と言っていいだろう。編集者は、百科事典、教科書、記事、段落、文章、といったあらゆるレベルにおける構造設計を、その一手に任されているのである。

編集者と同様、インフォメーションアーキテクトは基本的に情報構造を創りだすことに主眼を置いている。しかしその違いは、情報アーキテクチャはその任務を全く違う観点からとらえている、ということだ。情報アーキテクチャの世界では、情報の構成上の課題は全て同じひとつの問題、すなわち情報検索に関する問題のバリエーションと考えられている。

編集の分野においても、同じく情報検索の問題に取り組んでいる。多くの出版物が、情報の検索が容易に行えるように構成が練られている。例えば電話帳、辞書、地図などだ。これらは、毎年出版される推計不可能な膨大な出版物のごく一部にすぎない。

その他の出版物(辞書や地図以外)も同じように構造を抱えている。しかしそれらの構造は、参照目的の書籍でみられるような秩序だった分類体系を含まないことが多い。ライターや編集者は、あらゆる目的のために構造を決める。あるものは教え、またあるものは知らせ、またあるものは説得するためにその構成が練られているのである。

情報アーキテクチャもこの広範な問題に取り組むことになると私は見ている。現在実践されている領域の中に、すでにその可能性が秘められている。情報アーキテクチャは、ゆくゆくは情報検索の域を飛び越えていくのではないだろうか。しかしその大きな可能性を実現させるのに、現状のアプローチではまだまだ十分ではない。

もし雑誌や新聞の編集者に、出版前に制作物の構成が読者にテストされたらどうするか、とたずねたらきっと笑われるだろう。彼女にとって、効果的な構成を練ることは、自分の専門的判断力--何年にも渡るトライ&エラーと、苦労を重ねた経験によって磨かれたもの--を働かせることなのだ。

彼女にとって、その判断力こそが自分の役割の意義を証明するものであり、その存在理由なのである。その専門的判断が切り捨てられ、ただユーザ調査の結果にそって中身が構成されるなんて発想は、彼女にとっては全くばかげている。

要するに、彼女の反応はもっともなのだ。

その3:白衣に身を包んで

この業界外の多くの人々の中で、「情報アーキテクチャ」は「ユーザビリティ」の同義語と化している。歴史の浅い領域の専門家たちが、すでにいくらか名が定着している他の領域と肩を並べたいと思う気持ちはよくわかる。しかし、情報アーキテクチャと調査を一緒くたにすると、われわれは自身の進展を阻害し、追い求めてきた信頼性を失う、というリスクを冒すことになる。

現在の風潮では、ユーザー調査に基づいて築かれ、定期的なユーザーテストによって確立された情報アーキテクチャのみが唯一優れている、という考えが優勢である。しかし設計と調査の融合、つまり互いに他が欠けては存在できないようなものどうしの融合は、あまりにも事を簡略化しすぎではないだろうか。

よくてクライアントをだますだけで済むかもしれないが、最悪の場合自分たちをだますことになりかねない。

構成上の決定をユーザー調査に織り込むことは、自分たちの防護策としての効果がある。サイエンスを擁護することは、主観的見解を擁護することより明らかに容易なことだからだ。たとえその見解が、経験や専門的判断で下されたものだとしても、だ。しかしながら、実際それはサイエンスなどでは全くない。偽サイエンスだ。調査のうわべごとで自分たちの見解をカバーしても、決してそれが科学的になる、なんてことはない。それはちょうど白衣を着てみたところで科学者にはなれないのと同じことだ。

ユーザー調査が情報設計にもっとも恩恵をもたらすのは、解決しなければならない問題の明確化が目的の場合である。逆に調査があまり恩恵をもたらさない、言ってしまえばむしろ悪い結果をもたらすのは、問題に対する解決策そのものの明確化が目的の場合である。

あるユーザー調査が、問題そのものを扱うのか、その解決策を扱うのかを見極めることは決して簡単なことではない。問題を明確化しようと練られた試みが、調査の過程において解決策への提案に化ける、ということもしばしばだからだ。それは特に、調査を行う人物が、同時に解決策を編み出す担当となっている場合に起きやすい。

ユーザー調査の流れそのものが、ある解決策を伴うことがある。同様に、調査を見出すための分析の過程が、解決策に影響を与えるような先入観や思い込みを導きかねない。またそれらの調査は、仲間内の目にさらされることなく行われるために、手法の欠陥やバイアスがかった結果が表に出ることはない。

また、解決策を提案する調査以上にたちが悪いのは、調査が解決策ずばりそのものを導くものだ。「ユーザーがどう情報を並べたらいいか教えてくれたんだ--これを早く実行しないと!」

しかしユーザーの目的が明確に定められている場合、ユーザー調査は非常に有益だ。情報検索はその最たる例である。またEコマースについても同様だ。でもこれら以外の目的においてはふさわしくないと言えよう。

たとえ最良の手法によるユーザー調査でも、熟練したインフォメーションアーキテクトの代わりは務まらない。調査によって導かれた設計の意図するところは、ユーザーの予想に反するものが何もない状態、である。全てが予測可能で慣れ親しんだ構造を築くのに、ユーザー調査は完璧な手段だ。特に情報検索や、Eコマースといったある特定の場合において、われわれが要求するのはまさにそれだ。

でも実際は、主題をよく分かっていないユーザー向けに内容を適合させなければならない場合が多い。またユーザに何かを教え、説得するのが目的の場合などは、何かユーザーの予測に反する要素が、もっとも効果的なツールだったりする。しかしながら、ユーザー調査によって導かれた構造では、そのような驚きの要素が盛り込まれることはない。

さらには、情報設計の重要な手段としてあまりにユーザーテストに重点をおくと、設計上の斬新なアプローチを見つけることができなくなってしまうかもしれない。

私は高校生の頃、言語と語彙の習得とうたわれた授業を取っていた。しかしその授業の最初の日、実はその内容は、いかにSAT(アメリカで大学入学に必須の制度化されたテスト)を攻略するか、であることに気づいたのだった。

実際そこで学んだのは、言語や語彙の操り方の法則ではなかった。では一体何を教え込まれたのかというと、SATがどういうテストで、その問題がどう成り立っていて、またどうやって分からない答えに効果的にめぼしをつけるか、についてだった。でもそのようにテストを攻略することは、実際その中身を理解するのとは全く異なることだ。

これはユーザビリティについてもあてはまる。われわれがテスト結果を成功か不成功かで色分けしてしまうと、テストの攻略だけを促すのと同じになってしまう。通例ユーザビリティでは、もっとも能率的なアプローチがベストの結果であると考える。しかしながら、限られたエリア以外、すなわちユーザータスクやその目的を明確化できないエリアでは、能率をあげることが必ずしも最善とは限らない。ユーザーテストを、情報設計やユーザーにとっての考えられうる目的全ての根拠とすることはできないのである。

もし情報アーキテクチャの領域がこのまま進展してゆけば、テストを攻略するための小技や秘けつだけではない、情報アーキテクチャの知識体系を確立することができるだろう。一方で、複雑な実問題はいぜん引き継がれ、現在と同様に解決されないまま残ってゆくことも確かだろう。

その4:そして奇跡が起きる

次のようなメッセージが情報アーキテクチャに関するメーリングリストでよく見られる。

「教えてください。私がせっかくこのメーリングリストの誰もが納得するような解決策を提案したのに、社内の誰かが別の案を主張していて、それはどうも首を傾げたくなるものなのです。どなたか、私の案の妥当性を証明する調査を知りませんか?」

この場合の真の問題点は、データの欠如ではない。信頼性の欠如である。インフォメーションアーキテクトに対する不信がはびこっているのだ。まず、われわれは何を行うのかについて説明する。そしてなぜその手法が重要であるのかを説き、顧客はそれを理解した上で、われわれの手法に頼る事ができるかどうかを判断する。結局のところ、重大な戦略的決定事項などは、幹部の手に委ねられるべきなのである。

この信頼性のギャップを埋めようとする試みは、われわれの手法を裏付けてくれる調査に拠るところが大きい。どんな方策が最も効果的なのか判断する力を養うことに対するもどかしさと、この分野に疎い顧客を手っ取り早く説得する必要性のために、われわれは調査に過度に頼るようになってしまっている。

一見効果的なこのアプローチにより、われわれは情報アーキテクチャを、単純な公式、段階的なプロセス、一連のルールへと置き換えながら、その手法の科学化を進めてきた。情報アーキテクチャのプロセスをコード化しようという多くの試みは、ともすると、研究結果を一方に入力すると理想のアーキテクチャが他方から生成される、といった標準手法が導かれることを期待しているかのようだ。

ところが、情報アーキテクチャの方法論を繋ぎ合わせようとする試みは、どれも同じだ。--ユーザビリティテストのテクニックが網羅されたカタログ、ユーザー調査法に関する莫大な情報の山。でも、何か欠けていないだろうか?肝心なアーキテクチャの作業は一体いつ始まるんだ?

ここで思いだすのは、ある科学者が、別の科学者の研究を黒板で評価しているという有名なシドニー・ハリスのひとコマ漫画だ。その科学者は公式の一部を指差し、「この二つ目のステップをもっと明確にすべきだ。」と言う。その公式のやっかいなところは、途中で「そして奇跡が起きる」という文句に脱線している部分だった。

情報アーキテクチャの場合、奇跡とは構造の創出そのものである。この創造過程に取り組む研究に関する知識は増え続けている。また、そのプロセスの成果の評価方法もある。ところがそのプロセス自体、すなわちわれわれの仕事の真髄そのものがいまだ解き明かされず、情報アーキテクチャの領域に対する理解を妨げる謎となっているのである。

われわれは、何をすべきかという一番の重要課題はどこへやら、それ以外のことで時間を費やしている。皮肉にも、信用を得ようという意図で始まった研究方法論への過度な期待は、われわれに逆の結果をもたらしてしまった。そこで生み出されたイメージは、「インフォメーションアーキテクトとして成功するための7つのステップ!」を持ち合わす誰もがその仕事をこなせる、というものである。それではこの役割が風前のともしびと化しても何の不思議もない。

創造的なプロセスに取り組まない手法はどれもひどく不完全である。さらには、もしわれわれが調査を、「唯一真であるところの方法論」として依存する姿勢を貫き続ければ、情報アーキテクチャの領域の発展に欠かせない現場の人々を遠ざけ、除外してしまうというリスクを冒すことになるであろう。

その5:未来のアーキテクト

よく言われるように、専門化がおよぶと枝葉に陥ることになる。

しかし、初期のウェブにおいて情報アーキテクチャを影で支えてきたのは専門化であった。そして今もなお、ニューエコノミー時代に雇われた余分な制作スタッフの削減が続くこの業界において、インフォメーションアーキテクトの分野をかろうじて守り続けているのは専門家たちである。

どの業界もがどんでん返しをくらっている。長期に渡る業界の発展を無視して、ただ短期での要求を満たすようなやり方を避けることが、専門家たちの重要課題だ。

景気の低迷の中で、われわれはIAの専門家がいかにビジネス戦略上重要な役割をはたすかについてさんざん主張してきた。このアプローチによって、専門家というポジションに長いこと身を隠してこれた人たちもいるだろう。しかし専門性を誇張することは、実学としての体系の発展を妨げ、せっかく黄金期のなごりのチャンスがやって来ても、それを無駄にしているとしか思えない。

実学としての需要はますます拡大の兆しが見えているにもかかわらず、専門化された役割は、その大きな市場のほんの一握りを占めているにすぎない。

専門家は常に必要とされる。一部の組織では、社内でインフォメーションアーキテクトをかかえ、彼らがその成否を左右するプロジェクトが数多くある。通常専門のIAを必要としない組織においても、時にはIAの専門家をコンサルタントとして招くのにふさわしいだけの規模と重要性のあるプロジェクトをかかえることがある。Webサイトが直接利益につながっているような企業は、たいていIAの専門的知識を養う価値についてよく理解しているはずだ。

しかしながら実際にIAを担当する人のほとんどが、IAだけに専念することができないのが実情だ。ほとんどの組織において、社内で専門のIAをかかえるだけの規模の仕事を引き受けることはそうそうない。その多くの場合、Webはただコストのかかる部門であって、利益を生む部門ではない。よってその多くのチームが未熟練で人手不足で、そして決まって予算難なのである。

もし運がよければ、情報アーキテクチャの仕事をチーム内の誰かに任せられるだろう。しかしたいていの場合、それは「Webデザイナー」や「コンテンツ編集」や「プロジェクトマネジャー」と呼ばれる人たちだ。彼らにとってユーザーエクスペリエンスは、処理しないといけない数ある課題のうちの一つなのである。そして彼らの行う仕事が、Webにおける大部分のIAを構成している。

情報アーキテクチャの未来は、われわれでなく彼らの手の内にある。

この領域の進展は、知識体系の発展と反復にかかっている。そしてこの知識体系は、広大な範囲におよぶ構造上の問題と潜在的な解決策に対する深い考察によってはぐくまれる。われわれに一番必要なのは、質のよい実際の事例と、そこからくる見識なのである。

しかし専門家たちは、そのような実学の試みの機会を自ら狭めてしまっている。一人の専門家がどれだけのプロジェクトを1年にこなせるだろうか?明らかにダース以上もなく、多くはそれよりはるかに少ない数しかこなしていない。一方で、少ない専門家に対し、孤りで仕事をこなし、互いに同じ過ちを繰り返し、学んだことを共有する仲間がいないIAのアマチュアが数多くいる。

この領域を発展させるために、そういったアマチュア、非専門家へ対話の扉を開き、彼らを知識体系の発展に貢献してもらうよう促すのがわれわれの課題である。そうなると今度は、領域と役割は別個のものであり、その領域体系はありとあらゆる職種において実践可能である、という認識が必要になってくる。

さらにわれわれは、非専門家たちのIAの仕事をサポートしてゆかなければならない。たいそうな研究方法論など彼らの役には立たない。そんなものは彼らのアプローチのための情報源にも、促進源にもならない。たとえそうであったとしても、研究に精通することで、ダメなアーキテクトが優れたアーキテクトになりはしない。優れたアーキテクトにはそれ以上の何かが必要なのだ。

その6:秘けつとメッセージ

私はよくインフォメーションアーキテクトとしての成功の秘けつを聞かれる。そこで、今回はじめてその秘密を明かしたいと思う。

私には、直感がある。

もちろんそれはただの直感ではなく、優れたものでなければならない。私は、その点において顧客より優れており、そのために彼らは私を雇うのである。

私の推測能力はジャーナリズムを通じて培われたものだが、決してすべてのインフォメーションアーキテクトが、ジャーナリズムの学校に通ったり、新聞社で研修しなければならないというわけではない。必要なのは、既存の概念にとらわれない新しい考え方である。

誰もが、情報アーキテクチャからいかに推測による判断を取り除くか、という秘策を探し求めている。だが実際、推測はなくてはならないわれわれの仕事の一部であり、その推測による判断の質が、インフォメーションアーキテクトの優劣を決めると言える。

このことは、決して情報アーキテクチャのプロセスで調査は必要とされないというのではなく、調査によってわれわれの直感が改善され得ることを意味する。だが調査はわれわれの専門的判断を促すものであり、その代替物になってはならない。

権威ある民族学理論、文脈における質問、そして人間工学に基づくテストを背景とした、完璧な研究方法論は、情報アーキテクチャの問題点の多くを解決しようとしている多数のアマチュア専門家の役には立たない。彼らがもっとも必要としているのは、推測による判断の質をあげるための、すなわちよりよい直感を得るためのツールとテクニックである。

様々な分野の人々が、個々の経験とともにインフォメーションアーキテクトとして情報の構造上の問題に対処している。こういった多様性のなかにあって、ひとつだけ誰もが同意する考えがある。世界にはより優れた構造が必要である、というものだ。

研究によるデータと形式的な方法論は、よりよい構造を保証はしない。優秀なアーキテクトこそが、より優れた構造を創造するのだ。ところが、現時点におけるわれわれの活動は、何一つとして優れたアーキテクトを生み出すことにつながりはしない。

専門家のみが実践しうる情報アーキテクチャ、という視点がこのまま続いてゆけば、業界は停滞し、そのうち沈んでしまうだろう。現在われわれは、熱心な専門家や研究に費やされる莫大な時間とお金、といった敷居のせいで、現場の実例が締め出されるような知識体系を作り上げている。そのようなアプローチでは、われわれが専門化を進めれば進めるほど、現場で実践されている情報アーキテクチャとのズレが広がる、といった結末を招きかねない。

締め切りの迫った雑誌編集者のように、明日のアーキテクトにデザインや解決策の試行錯誤を繰り返す時間的余裕は与えられていない。必要なのは即座の結果であり、そのための優れた直感なのだ。われわれは、この領域を維持する使命のあるコミュニティ全体として、そういった直感を働かせるスキルを向上させることに力を入れなければならない。重要なのは、秘密の公式ではなく考えるためのツールであり、ルールではなくスキルなのだ。

広く応用され得るツールを創出するためには、IAに関する創造的思考のより深い理解が必要である。その後、IAの非専門家にそれらのツールを提供し、さらに彼らにランクアップする機会を与えなければならない。また、方法論に頼らずに案を実証できるだけのスキルの手ほどきにも力を入れるべきである。彼らこそが、この分野においてもっとも創造力に富む、新たな思考の源となるのだ。われわれは彼らの参加を広く促してゆかなければならない。

企業、すなわちこの領域の実践がかかっている意思決定者たちは、ニューエコノミーの停滞により弱気になっている。なぜならこれまで多方面から、景気挽回のための万能薬と称する役に立たない方策をいくつも提案されてきたからだ。

このことは、われわれにまたとない機会を与えてくれている。われわれのここでの選択は、将来のこの分野の認識と方向性を形作ってゆくに違いない。

率直で人を引きつける正当な主張により、われわれは信頼と尊敬を得ることができる。逆に、専門的判断力より偽科学を誇張するようなもの、あるいは企業幹部に会社の運営方法を口出しするような間違った主張では、現状を変えることはできないだろう。

以下がわれわれが伝えてゆくべき内容である。

情報アーキテクチャとは、ありとあらゆる役割のさまざまな人々によって実践される領域体系である。情報アーキテクチャは単なる情報検索以外にも、様々な目的のために構築される。また、情報アーキテクチャの成功を導く最も重要な要素は、アーキテクトのスキルである。このスキルは、経験による専門的判断力、調査結果のくまない考察、体系化された創造力、などを通じて応用される。また、こういったスキルは、専門家とそうでない者、両者によって実践され、向上してゆくのものである。

われわれは自身に価値を与えるものに対して率直になることによってのみ、他人にもその価値を説いてゆくことができる。またわれわれは、知識を広げてゆくことによって、そこからより一層の恩恵をこうむることができる。そしてまた、こういった考えが広く受け入れられる文化的背景を創り出すことが、この分野のさらなる発展と、今後の成功を導くであろう。

NobuyaSato — 2004年02月14日 23:32